2011年10月3日月曜日

祈りの花火

10月1日は二子玉川の多摩川花火大会だった。震災の影響で延期になったもの。会場のみんなが待ち焦がれた時間。花火の明るさには、心のもやもやを吹き飛ばしてくれるパワーがあると思った。

延期にしなくてよかったのではないか。花火を見上げながら、一瞬の光に祈り、音を心に響かせ、感動を口にし、一緒に花火を見ている人を大切に思う。昨日のあの時間は、そんな尊い時間になっていた。

それは、今年の夏、岩手県一ノ関市で行われた花火大会で感じた雰囲気とは違った。どちらも同じ河川敷で見る花火だけど、震災から5ヶ月後の夏の一ノ関市はもう日常を取り戻していた。熱くてパワフルで、子供の騒ぎ声が聞こえる、いつもの夏の一コマのようだった。

全国の花火大会も、いつも通り夏に開催すればよかった。そして、現地にいないからこそ、何もできないからこそ、みんなで祈る時間にすればよかった。そこで、寄付を集めればいい。

被災地の出来事に心を傷めた方は日本中にいる。我がごとのように心配したけど、何もできず、悩み苦しんだ人もたくさんいる。

花火には、彼らも救うパワーがあった。来年は全国で盛大に花火大会を。祈りと未来への希望を込めた打ち上げ花火を。

2011年9月27日火曜日

うめ校の1年間のほんとのところ。 #umekou


青梅で「民立おうめ楽校」という市民参加型のまちおこしをはじめて、1年。
勢いばかりで始めてしまい、色んな方に迷惑かけてきたけれど、3つの割り切った考えを持って活動し続けた。

1.失敗をよしとする。
2.後悔しても始まらないから今の自分をよしとする。
3.変化することを恐れない。
いまや、この考えは身体にしみついている。どんな場面でも思い切って、この考えに基づいて行動する。あとは、「自分のまちに貢献したい」っていう芯さえ強く持っていれば、どれだけ内容が変化しようが、環境が変わろうが、竹のようにしなやかにぐんぐんと成長するはず。

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うめ校(民立おうめ楽校)で決めていることは特になくて、
「とにかく2カ月に1回は、青梅・奥多摩にとって良い活動すること」

テーマは限定していないし、参加人数もこだわらない。
青梅にとっていいことだと信じたことをやりぬく。
その過程で人に迷惑かけることも、怖がらないことにした。

そんなこんなで見切り発車で始まったうめ校。1年の間に、次々と新しい活動指針ができた。

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「共感から協働へ」
半年を過ぎたあたりに、ふと浮かび上がったうめ校のスローガン。
たくさんの人を巻き込む魔法の言葉。平たく言えば、「うめ校の考えがよいと思う人、一緒にやろう」というメッセージ。

うめ校が共感を求めるのは、
「自分のまちに関心を持とう」「まちにいいことをしよう」「まちの仲間を大切にしよう」「ネットワークを作ろう」「自分のまちを楽しもう」「青梅・奥多摩を盛り上げよう」…といった単純な考え方。

でも活動していると、うめ校に共感してたくさんの人が集まってきてくれるのだった。こうしてどんどん「共感」は増え、うめ校の活動は広がりを見せている。

わかったのは、うめ校に興味を持つ人はだれも、素晴らしいマニュフェストなんて求めてないということ。市民の心を動かすのは、自分のまちにいいことしたいなっていう気持ちを後押しする、ちょっとしたビジョン。

誰だって、自分のまちは好きだし、大切にしたい。
そうした気持ちを尊重するのが、うめ校。
そうした気持ちに寄り添った存在であるのが、うめ校。
そして、その気持ちを行動に変える機会を作るのが、うめ校。

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そう表現するとちょっとうめ校がカッコよく聞こえるけれど、舞台裏はとっても泥臭い。
子どもがターゲットのイベントの時は、子どもが集まる市民会館で1人、チラシを配り続けた。うめ校第一回イベントの時は、危機迫る勢いで市役所の市民活動推進課に乗り込んだ。(後日でその時の窓口担当の方に「あの時と比べたら落ち着いたよね」と言われたのだった(汗))ネットワークを作るために、ボランティアセンターに訪れ、NPOを訪ね歩き、ままならない団体紹介をしては、なんだか恥ずかしくて落ち込んだ。
でもそれは、今も変わらない。結局人を集めたり、動かしたり、まちを変えたりするのって、泥臭いことをひたすら続けるってことなんだろな、って今も思う。

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ようやく共感してくれる方を見つけても、共感だけじゃ、参加費払ってまでイベントには参加してくれない。大切なのは、「主催者が楽しみ、参加者を楽しませること」

青梅・奥多摩ってほんとに素晴らしいところで、自然がたくさんある。だから大人でも楽しめるようなアクティビティはたくさんある。しかも、その魅力をより一層楽しませてくれる、アウトドアスポーツもたくさんある。

うめ校はそうした「楽しいこと」を満喫できるイベントを作る。「まちにいいこと=楽しいこと」だったら、人は休日でも喜んで集まってくるはず。まぁそんなにとんとん拍子に進んだはずもないけれども(苦笑)。

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「つながりを作る」
奮闘しながら1年間活動していると青梅を盛り上げたいって人にたくさん出会った。うめ校のブログによく出てくる、素泊まり宿さん、ネイチャーガイドさん、市職員さんなどなどなど。

彼らと語る機会がたくさんあった。そこで思ったのは、彼ら同士をつなげたらもっと青梅が盛り上がるんじゃないかなってこと。だから、うめ校はイベントに「つながりをつくる」要素もいれていった。

うめ校が目指す「つながり」ってただ単に、「こんにちは」っていう挨拶ができるようになる間柄ではなくって、青梅を語れる間柄。それには時間がかかるから今も絶賛挑戦中。だから、彼らには仕事後にも喜んで会いにゆく。会いたいし、話したいし、一緒に考えたいし、つながっていってほしいし。
片思いでひとりよがりかもしれないけれど、それでもいいや。

市外で地域活性をモットーに活動する人も、うめ校のお手伝いをお願いしている。「自分の町を大切にする人は、他のまちも大切にする」、今年の夏、東北にボランティアに行って学んだこと。

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…うめ校のほんとのところなんてこんなもの。
なんだかあまりにも立派な理念を掲げた大した団体のように見られているような気がして、ちょっと最近どぎまぎしてきたから笑、告白してみました。

見切り発車で、変化ばかりする、カメレオン列車。いまや、活動場所を青梅から奥多摩まで広げようとしています。いつまでやるかも決めてないから、運転休止もあり得ます。

だけど、走るときは、青梅・奥多摩のためになる方面しか目指しません。青梅のために活動する方しか乗車してもらいません。そして、今あるまちにあった色に変化し続けます。協働のお話、市民活動のご相談、大歓迎です。

こんなうめ校でよければ、これからもどうぞよろしくお願いします。
2011/9/27 うめ校 代表 山岸怜奈

~抽象的な説明ばかりでごめんなさい。
 うめ校のイベント等の実施報告はブログに掲載しています。こちら↓~
    http://umekou.jugem.jp/

2011年8月9日火曜日

宮城~岩手の旅で、私のココロが動いた時。

宮城県の北半分と、隣り合わせる岩手県の南半分をめぐる旅に出た。6日間かけて、石巻市では被災地で「ボランティア」を、石巻市から宮古市までは被災地の「見学」を、岩手県の盛岡市と平泉町では「観光」をしてきた。

その時の感情をありのままに、つづってみたいと思う。



◆石巻駅前ロータリーにある石碑には、石巻市民憲章が刻まれていた。
『…まもりたいものがある それは生命のいとなみ 豊かな自然 
   つたえたいものがある それは先人の知恵 郷土の誇り  
たいせつにしたいものがある それは人の絆 感謝のこころ 
…わたしたちは 石巻で生きてゆく 共につくろう 輝く未来』

とてもきれいな文章。言葉が押しつけがましくなく伝わってくる。素直に思う。「まもりたい」と「つたえたい」と「たいせつにしたい」と、心から思う。
津波の被害を受けた石巻では、どれほどの生命が流されたのだろう。郷土の誇りはどれだけ失われたのだろう。この市民憲章は、石巻市民の切なる願いであると同時に、「守れなかった、伝えられなかった、大切にできなかった」現状を突き付けているのではないか。津波で汚れたはずのピカピカの石碑。石巻市民の願いと失われた無念を感じ、悲しくなった。



◆田んぼに流れ着いたガレキの撤去をした。
200×100メートルほどの田んぼにボランティアは約50名、9時から15時まで。「田んぼに必要ないものは全部拾ってください」。田んぼの中には、巨木・電信柱・コンクリート・一升瓶・着物・木片など。ガレキと言われるモノの撤去を手作業で進めた。巨木は男性およそ20名が、「せ~の!せ~の!」と声を合わせて転がして隅に寄せた。

その日は雨が降っていた。カッパを着ての作業。ぐちゃぐちゃの泥の上で一輪の台車を押す。粘り気のあるヘドロがグニュッとして、足の踏ん張りが効かない。10センチほど積もったヘドロと格闘しながら、撤去作業を続けた。午後になると雨がやみ、気が付けば田んぼにはガレキがなくなっていた。すがすがしい気持ちになった。

それでもたった200×100メートル。地道な作業が今も続く。田んぼに流れ着いたままのヘドロをどうするかもまだ決まっていない。ヘドロが田んぼを不毛の地にしている。「お米ができるまでにどのくらいかかる?」なんて、途方もなくて答えが出ない。今はそんな状況。

でも作業中、いやな顔をする人はだれ一人いなかった。「これからこれから!」頑張る元気をもらって田んぼを後にした。



◆港・湾・河川と接する、石巻、女川、南三陸、気仙沼、陸前高田、大船渡、釜石、大槌、山田、宮古、田老。私が2日間かけて見学した市街。

家がない、あっても一階部分がない。家が建っていても、窓ガラスがない。
全員が無事だった学校に入っても、机がない。名前が書かれたランドセルはあったけれど、置き去りのままだった。

失われたモノばかり。汚されたモノばかり。荒れ果てすぎて、あっけらかんとしていた。灰色のモノと茶色く錆びたモノと、炊飯器などの人が使っていたらしき小さなモノと、たまにあるひまわりの黄色ばかりが印象に残る。

5か月の間に片づけは進み、流された家や車が山のようにまとめられていた。生活感のあるものはなにもなく、不思議と悲しみは感じなかった。元の姿も想像できなかったから。だけど、たまに手袋や長靴を見つけると「ビクッ」とした。頭では多くの人が亡くなったって知っているから、人のカタチが怖かった。ガレキの下に人が入れそうなスペースを見つけては、気になったけど覗けなかった。

家の壁面に、“4/24確認済”と赤のスプレーで書かれていた。たくさんの車や家に書かれていて、5月以降の日付もあった。「何を“確認”したのだろう」赤のスプレーの文字に目が釘づけになり、時間が止まったように感じた。



◆避難所でこっそり『身元不明者リスト』を見た。
リストの項目には「~~~の海底・緯度~~・経度~~/ 中肉~~~ /ジーパン~~~/ ~~にほくろ」といった文字が並ぶ。発見場所は海底が多かった、ように思う。あぁ、ほんとに人が津波にさらわれたんだなと思った。文字通り、さらわれたのだと。

手にしたリスト、見ていないページはまだあった。でも、それ以上開くことはできなかった。私が見てはいけないモノだと思った。このリストを見る方の気持ちを考えたら、息苦しくなった。私は避難所を急ぎ足で去っていた。



◆津波に襲われた小学校の黒板。
きれいに消されていたけど、うっすらと「三月十一日(金)日直:○○」という文字が見えた。名前からして日直は男の子だろうか、元気かな。

荷物を片づけに来たのだろう、黒板には子どもの字でメッセージが書かれていた。「みんながんばろう」「がんばれ!!」「がんばろうね」「みんな元気ですか」「とーきょうにいる」「3月11日皆忘れるな!」

被災地を案内してくれたのは、10年前、小学6年生だった私のクラスの担任だった先生だ。一緒に見学をした残りの3人も現役の小学校の先生。彼らはこの学校をみて、普段の教室との違いにどれだけ胸を痛めているのだろうか。「被災者の子どもと東京の子どもと何が違うのだろう?」、そのこととどうやって折り合いをつけるのだろう。学校に戻って何を伝えるのだろう。事態を受けとめ、悲しい現実を乗り越えるつらさを思うと、いたたまれなくなった。

小学校の時は止まっていても、3月11日(金)1446分から確実に時は過ぎている。幸運だった私たちが何を伝えるのか、どう行動するのか、悩みながらも前に進めたらいいと思う。



◆見学を終え、内陸部の盛岡市に着いた。
盛岡を代表するお祭り、盛岡さんさ踊りの日だった。信号が動いていて、浴衣着た茶髪の若者たちがルンルンしながら交差点を渡っていた。灰色と茶色以外の色を目にするのも、若者に会うのもなんだか久しぶりな気がして、見ているだけで元気が出てきた。

私は旅行初日に、石巻の川開き祭りにも参加していた。今年は例年実施している灯篭流しに、供養の意味を込めていた。そこには若者がたくさんいた、浴衣着てルンルンしていた。そう、盛岡のお祭りと同じ光景だった。

けれど違った。灯篭流しを眺めながら泣いている人がいた。隣にいる子どもが高く細い声で「ママ」と呼び掛けていた。私は橋の手すりから最前列で灯篭を覗いていたけれど、後ろにいた“ママ”にその場所を譲った。そして若い人にまぎれて、屋台に並んだ。そのほうが気が楽だった、涙する方の気持ちに寄り添うこともできなかった。この時、旅行の間ずっと感じていた無力感をもっとも感じた。あたりを見渡すと、涙する人を他にも見かけた。彼らは灯篭流しを見たのち、静かに会場を後にしていた。

津波に襲われた地域と襲われていない地域では、被害のレベルが違う。それは、現地の方もおっしゃっていた。盛岡のお祭りと石巻のお祭りは全然違う、私はそう感じた。



◆岩手県の海岸、浄土ヶ浜にも立ち寄った。
白い砂浜に透き通る海水、青い空。てっぺんに木々を生やしながら所々とがった白い岩が、海水から頭を出していた。のどかで趣きある海岸だった。
ズボンのすそをぬらし無邪気に遊んだ、楽しかった。海は怖くなかった、心がいやされていた。ねっ転がってもみた、気持ちがよく眠ってしまいたいと思った。

見学を通して、海は怖いのだと、人を喰うものだと感じていた。だけど、そこにある自然はきれいで穏やかで、すべてを包み込むような寛大な空間だった。今度はあの海で、思う存分泳いでみたいな。



◆宮城・岩手では、美味しいものをたくさん、いただいた。
食いしん坊だからでしょうか。マグロと地酒、ホタテのお寿司、じゃじゃめん、冷麺、おそば、ずんだ餅、南部せんべい、どれもみんな美味しくて幸せに感じた。あと牛たんも食べたかったなぁ、なんて。

がらんとしていた石巻の商店街で見つけたうどん屋さん。店先でテイクアウトのうどんを売っていた。1階部分は津波の被害に遭ったから、以前の家具は一切使えないのだろう。お店の中はすっかり片づけられていて、テーブルが出してあるだけだった。その上で、うどんを打つ、切る、ゆる、お皿に盛りつける作業を大人10名ほどがしていた。

うどん屋のみなさんの笑顔は強く、暖かかった。「美味しかった」と伝えたら、とっても嬉しそうだった。だって今伝えたい味があるから再開させたのだもの、美味しくないわけがない。「もっと観光客が来てほしい」「おいしいものはまだたくさんある」、現地の方が胸を張っておっしゃっていた。



◆人が立ち上がるということ、人が人を支えるということ。
貯蓄をはたいて福岡から移り住み、田んぼのガレキ撤去の誘導をするお兄さん。自転車の修理屋を被災地の小学校で開くボランティアのお兄さん。津波で一面ガレキだらけの場所にポツンとある、八百屋さん。津波の被害に遭った次の日に、従業員を集めてお店の再開を誓ったたらこ屋の社長さん。

私は岩手・宮城で会った方々から、人の心を感じた。「これじゃだめだ」「復活させたい」「元気にしたい」「お気をつけて」「ありがとう」「がんばろう」。どれも理屈でなく感情。

「お金がなくなったらどうしよう?」なんてきっと考えてないのだと思う。「とにかく救いたい」の心ひとつ。「お気をつけて」もカタチだけのあいさつではなく、心からの言葉。
土地は荒れ、がれきの山積みばかり。「どうしたら?」なんて考えたら、途方もない。「とにかく絶対復興させるんだ!」とその気持ちひとつが、今も被災地を支えている。

そして、人の心がある場所はきっと再び復興するのだと、思う。

まだまだ至らないけれど、いつか、人の心を支えられる人になりたい。

20110807 @repo017