2011年8月9日火曜日

宮城~岩手の旅で、私のココロが動いた時。

宮城県の北半分と、隣り合わせる岩手県の南半分をめぐる旅に出た。6日間かけて、石巻市では被災地で「ボランティア」を、石巻市から宮古市までは被災地の「見学」を、岩手県の盛岡市と平泉町では「観光」をしてきた。

その時の感情をありのままに、つづってみたいと思う。



◆石巻駅前ロータリーにある石碑には、石巻市民憲章が刻まれていた。
『…まもりたいものがある それは生命のいとなみ 豊かな自然 
   つたえたいものがある それは先人の知恵 郷土の誇り  
たいせつにしたいものがある それは人の絆 感謝のこころ 
…わたしたちは 石巻で生きてゆく 共につくろう 輝く未来』

とてもきれいな文章。言葉が押しつけがましくなく伝わってくる。素直に思う。「まもりたい」と「つたえたい」と「たいせつにしたい」と、心から思う。
津波の被害を受けた石巻では、どれほどの生命が流されたのだろう。郷土の誇りはどれだけ失われたのだろう。この市民憲章は、石巻市民の切なる願いであると同時に、「守れなかった、伝えられなかった、大切にできなかった」現状を突き付けているのではないか。津波で汚れたはずのピカピカの石碑。石巻市民の願いと失われた無念を感じ、悲しくなった。



◆田んぼに流れ着いたガレキの撤去をした。
200×100メートルほどの田んぼにボランティアは約50名、9時から15時まで。「田んぼに必要ないものは全部拾ってください」。田んぼの中には、巨木・電信柱・コンクリート・一升瓶・着物・木片など。ガレキと言われるモノの撤去を手作業で進めた。巨木は男性およそ20名が、「せ~の!せ~の!」と声を合わせて転がして隅に寄せた。

その日は雨が降っていた。カッパを着ての作業。ぐちゃぐちゃの泥の上で一輪の台車を押す。粘り気のあるヘドロがグニュッとして、足の踏ん張りが効かない。10センチほど積もったヘドロと格闘しながら、撤去作業を続けた。午後になると雨がやみ、気が付けば田んぼにはガレキがなくなっていた。すがすがしい気持ちになった。

それでもたった200×100メートル。地道な作業が今も続く。田んぼに流れ着いたままのヘドロをどうするかもまだ決まっていない。ヘドロが田んぼを不毛の地にしている。「お米ができるまでにどのくらいかかる?」なんて、途方もなくて答えが出ない。今はそんな状況。

でも作業中、いやな顔をする人はだれ一人いなかった。「これからこれから!」頑張る元気をもらって田んぼを後にした。



◆港・湾・河川と接する、石巻、女川、南三陸、気仙沼、陸前高田、大船渡、釜石、大槌、山田、宮古、田老。私が2日間かけて見学した市街。

家がない、あっても一階部分がない。家が建っていても、窓ガラスがない。
全員が無事だった学校に入っても、机がない。名前が書かれたランドセルはあったけれど、置き去りのままだった。

失われたモノばかり。汚されたモノばかり。荒れ果てすぎて、あっけらかんとしていた。灰色のモノと茶色く錆びたモノと、炊飯器などの人が使っていたらしき小さなモノと、たまにあるひまわりの黄色ばかりが印象に残る。

5か月の間に片づけは進み、流された家や車が山のようにまとめられていた。生活感のあるものはなにもなく、不思議と悲しみは感じなかった。元の姿も想像できなかったから。だけど、たまに手袋や長靴を見つけると「ビクッ」とした。頭では多くの人が亡くなったって知っているから、人のカタチが怖かった。ガレキの下に人が入れそうなスペースを見つけては、気になったけど覗けなかった。

家の壁面に、“4/24確認済”と赤のスプレーで書かれていた。たくさんの車や家に書かれていて、5月以降の日付もあった。「何を“確認”したのだろう」赤のスプレーの文字に目が釘づけになり、時間が止まったように感じた。



◆避難所でこっそり『身元不明者リスト』を見た。
リストの項目には「~~~の海底・緯度~~・経度~~/ 中肉~~~ /ジーパン~~~/ ~~にほくろ」といった文字が並ぶ。発見場所は海底が多かった、ように思う。あぁ、ほんとに人が津波にさらわれたんだなと思った。文字通り、さらわれたのだと。

手にしたリスト、見ていないページはまだあった。でも、それ以上開くことはできなかった。私が見てはいけないモノだと思った。このリストを見る方の気持ちを考えたら、息苦しくなった。私は避難所を急ぎ足で去っていた。



◆津波に襲われた小学校の黒板。
きれいに消されていたけど、うっすらと「三月十一日(金)日直:○○」という文字が見えた。名前からして日直は男の子だろうか、元気かな。

荷物を片づけに来たのだろう、黒板には子どもの字でメッセージが書かれていた。「みんながんばろう」「がんばれ!!」「がんばろうね」「みんな元気ですか」「とーきょうにいる」「3月11日皆忘れるな!」

被災地を案内してくれたのは、10年前、小学6年生だった私のクラスの担任だった先生だ。一緒に見学をした残りの3人も現役の小学校の先生。彼らはこの学校をみて、普段の教室との違いにどれだけ胸を痛めているのだろうか。「被災者の子どもと東京の子どもと何が違うのだろう?」、そのこととどうやって折り合いをつけるのだろう。学校に戻って何を伝えるのだろう。事態を受けとめ、悲しい現実を乗り越えるつらさを思うと、いたたまれなくなった。

小学校の時は止まっていても、3月11日(金)1446分から確実に時は過ぎている。幸運だった私たちが何を伝えるのか、どう行動するのか、悩みながらも前に進めたらいいと思う。



◆見学を終え、内陸部の盛岡市に着いた。
盛岡を代表するお祭り、盛岡さんさ踊りの日だった。信号が動いていて、浴衣着た茶髪の若者たちがルンルンしながら交差点を渡っていた。灰色と茶色以外の色を目にするのも、若者に会うのもなんだか久しぶりな気がして、見ているだけで元気が出てきた。

私は旅行初日に、石巻の川開き祭りにも参加していた。今年は例年実施している灯篭流しに、供養の意味を込めていた。そこには若者がたくさんいた、浴衣着てルンルンしていた。そう、盛岡のお祭りと同じ光景だった。

けれど違った。灯篭流しを眺めながら泣いている人がいた。隣にいる子どもが高く細い声で「ママ」と呼び掛けていた。私は橋の手すりから最前列で灯篭を覗いていたけれど、後ろにいた“ママ”にその場所を譲った。そして若い人にまぎれて、屋台に並んだ。そのほうが気が楽だった、涙する方の気持ちに寄り添うこともできなかった。この時、旅行の間ずっと感じていた無力感をもっとも感じた。あたりを見渡すと、涙する人を他にも見かけた。彼らは灯篭流しを見たのち、静かに会場を後にしていた。

津波に襲われた地域と襲われていない地域では、被害のレベルが違う。それは、現地の方もおっしゃっていた。盛岡のお祭りと石巻のお祭りは全然違う、私はそう感じた。



◆岩手県の海岸、浄土ヶ浜にも立ち寄った。
白い砂浜に透き通る海水、青い空。てっぺんに木々を生やしながら所々とがった白い岩が、海水から頭を出していた。のどかで趣きある海岸だった。
ズボンのすそをぬらし無邪気に遊んだ、楽しかった。海は怖くなかった、心がいやされていた。ねっ転がってもみた、気持ちがよく眠ってしまいたいと思った。

見学を通して、海は怖いのだと、人を喰うものだと感じていた。だけど、そこにある自然はきれいで穏やかで、すべてを包み込むような寛大な空間だった。今度はあの海で、思う存分泳いでみたいな。



◆宮城・岩手では、美味しいものをたくさん、いただいた。
食いしん坊だからでしょうか。マグロと地酒、ホタテのお寿司、じゃじゃめん、冷麺、おそば、ずんだ餅、南部せんべい、どれもみんな美味しくて幸せに感じた。あと牛たんも食べたかったなぁ、なんて。

がらんとしていた石巻の商店街で見つけたうどん屋さん。店先でテイクアウトのうどんを売っていた。1階部分は津波の被害に遭ったから、以前の家具は一切使えないのだろう。お店の中はすっかり片づけられていて、テーブルが出してあるだけだった。その上で、うどんを打つ、切る、ゆる、お皿に盛りつける作業を大人10名ほどがしていた。

うどん屋のみなさんの笑顔は強く、暖かかった。「美味しかった」と伝えたら、とっても嬉しそうだった。だって今伝えたい味があるから再開させたのだもの、美味しくないわけがない。「もっと観光客が来てほしい」「おいしいものはまだたくさんある」、現地の方が胸を張っておっしゃっていた。



◆人が立ち上がるということ、人が人を支えるということ。
貯蓄をはたいて福岡から移り住み、田んぼのガレキ撤去の誘導をするお兄さん。自転車の修理屋を被災地の小学校で開くボランティアのお兄さん。津波で一面ガレキだらけの場所にポツンとある、八百屋さん。津波の被害に遭った次の日に、従業員を集めてお店の再開を誓ったたらこ屋の社長さん。

私は岩手・宮城で会った方々から、人の心を感じた。「これじゃだめだ」「復活させたい」「元気にしたい」「お気をつけて」「ありがとう」「がんばろう」。どれも理屈でなく感情。

「お金がなくなったらどうしよう?」なんてきっと考えてないのだと思う。「とにかく救いたい」の心ひとつ。「お気をつけて」もカタチだけのあいさつではなく、心からの言葉。
土地は荒れ、がれきの山積みばかり。「どうしたら?」なんて考えたら、途方もない。「とにかく絶対復興させるんだ!」とその気持ちひとつが、今も被災地を支えている。

そして、人の心がある場所はきっと再び復興するのだと、思う。

まだまだ至らないけれど、いつか、人の心を支えられる人になりたい。

20110807 @repo017

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